世の中どう変わったんでしょうね?そして自分はどう変わったんでしょうね?
今の人が「頑張らない宣言」を聞いたら、何を思うんだろう?
以下昔の日記より(リンクは貼れないので、前後も読みたい人は上のメニューから自力でたどってください。)
2003年1月8日 (水) 夜 - 「がんばらない宣言」
故郷岩手では、「がんばらない宣言」という広告をだしており、なかなかの好評らしい。 第一弾の広告には、椎名誠さんの次のような文章が載っています。
何かしていなければ落ち着かない。
つねにがんばっていないと不安になる。
そんなの変だぜ、現代人諸君。
僕が大好きな岩手にでかけてごらん。
気分のいい風と空と雲が、
きらきら、ふわふわ、笑って待っているから。
なかなか大切なことを言っているように思います。 また、「がんばらない」の意味として次のように説明されています。
岩手流「がんばらない」の意味
より人間的に、よりナチュラルに、素顔のままで新世紀を歩き始めましょう。それが岩手の理想とする「がんばらない」姿勢です。例えば、深い森を伐って最先端デザインのビルを建てるのではなく、濃厚な森羅万象に調和した木造りの民家を守ってこそ岩手らしいんじゃないか……そんな「共生」の意識こそが、岩手流「がんばらない」なのです。
この宣言に対し、県議会では「どういう趣旨か」「がんばっている人にがんばるなというのか」などの質問が出されたとか・・・。 このような質問をする人は「がんばらない」の意味するところが、正確にはわかっていないものと思えます。 この「がんばらない」は、文字通り「頑張るな」と言っているのではなく、そもそもなんのために頑張っているのかを考えよ、その根本理由に立ち返れ!という意味を含んでいるように思います。 「頑張ること」=「正しいこと」という等式に?マークを投げかけているのです。
僕たちは、よりよく生きたいと願って「頑張って」来た、そしてこの社会を作ってきたはずなのに、今の時代は閉塞感でいっぱいです。 それは、「頑張ること」=「正しいこと」という等式に、あまりにも重きが行き過ぎて、 「頑張りさえすれば幸せになれる」という、強迫的な悪循環に陥り、 そもそもの「頑張る理由」を忘れてしまっているからではないでしょうか?
その結果として、乱開発や、「古い小学校の校舎は、新しく立て替えさえすればよい」といった考えが生まれたり、「仕事を頑張ることが、家庭の幸せ」と頑張っているうちに、家庭が崩壊する・・・ということが起こるのではないでしょうか?
ここらでもう一度「頑張る理由」を「がんばらない」ことによって、確かめてみるのが良いのではないか? そうすればきっと、そんなに「頑張らなくても」いいんじゃないか! そんな気になるのではないかと思います。
「がんばらない宣言」については、下記ページを参照。